ふうむ。「戀」(4月16日)か。
なーんか、糸がこんぐらがっちゃってる字だぞ。
「《言ばの絲、そのした心》」という説明も、ふむふむ、と思うのだが、《わたしの言葉を糸で包んで、あなたの心に重ねてみる》なんていうのは、どうだろうか。
てへ。さて、仕事だ。
なんだか、時間感覚がいかれてる。
このところ、事実を時系列で説明しながら、で、実はそのころわたしは・・・っていうようなことを自己紹介がてら話したりしていて、あれ?本当にそうだったっけか、と、ふっと実感がわかなくて、立ち止まってしまう。
わたしの中で、あの頃、というのが明確な時期と、全然あの頃、という実感がわかない時期とがはっきり分かれてきた。
なぜだろう。
この1年の密度が濃かったので、それ以前に経験したことの多くが、記憶の中でパッキングされてしまったようだ。
それは、わたしではない。わたしであるはずがない。わたしでなくてよい。わたしでない方がいい。
考えすぎない方がいい。生身の生活で、目を開き、耳を澄ます。ふっとした瞬間に、あっと感じたことを、ことばに書き留める。
読ませよう、などとちょっとでも思ってるふしがあったら、書かない。
だから、おおかた、意味などないのだ。
昔、「戀」という字は、「糸しい糸しいと言ふ心」とおぼえたそうです。しかしこの字は略字。正字で書くと、「絲しい絲しいと言ふ心」となり、「絲」がひとつ余計です。
それにしても、リンク元の「生八つ橋」がひときわ光っていますねえ。
「生八つ橋」2件か。こないだは確か、「生八つ橋 おたべ」で来てた人いたな。
日記内検索窓ありますんで、そこで検索すると出てくるでしょう。って、ただ、京都のお土産に買った、っていう話が出てくるだけですが。
検索すると、しょーもない日記ばかり引っかかってくる、とぼやく人が増えるわけですな。
「生八つ橋」でも「生八橋」でもヒットしないぞ。「生」を取ると出てくるけど。
説明読むと、「日本語がでたらめに分かち書きされてしまう」という検索失敗らしい。Namazuは生の八つ橋を食わんのだな。