わたしの妹は、思うところがあるらしく、最近になって、学士入学をしてその後修士課程に進んで勉強している。
以前その大学の助手か何かをしていて、妹もお世話になったという人が、自殺したと聞いて驚く。他大学に移った教授について移動したのだが、その教授は以前から特定の人をいじめる傾向があり、それが自殺の背景にあったかもしれない、と聞いてさらに驚く。
奥さんは無念な思いをしているという。しかも、まだ小さい子どもがふたりいるそうだ。そういう人が自殺した、ということは、よほどのことがあったとしか思えない。
真相はわからない。わたしがいるような私大文系では、そこまで理不尽なハラスメントは見かけないが、国立の理系あたりだと、ありうるのかもしれない。もしこれがアカデミック・ハラスメントだとしたら、やはりきちんと真実をつきとめなければいけないと思う。
あえて書いたのは、死にたいと思ったことがない人をめぐるやりとりを読んでいたことと無関係ではない。
死を選ぶ、ということに対して、あるいは、そこまで追い詰められた人に対して、一体何ができるか、何をすべきか、ということを考える。
死にたいと思ったことがない人に対して、そんなの理解できない、と言うことと、死にたいと思ったことがある人に向って、そんなの理解できない、と言うこととは、一見するとおあいこのように見えるが、実際は違う。死にたいと思ったことがない人は、そう言われて追い詰められることはないが、死にたいと思ったことがある人は、その一言でさらに追い詰められる。
死を選ぶ人は、「死にたい」のではなくて、「生きていられない」からなので、そういう人をさらに追い詰めることは、死人に鞭打つ行為と同じだと思う。
一応書いておくと、わたしは、今まで一度も、本気で死にたいと思ったことはない。それどころか、死ぬのはばかげている、と思っている。それでも、死にたいと思ったことのある人に対して、何を言ってはいけないか、ぐらいはわきまえているつもりだ。その、言ってはいけないことを言ってしまう人が、世の中には多すぎると思う。
さきほどウムイにアクセスしたら、わたしがコメントに書いた「思いやる」という表現に対して、それは違うんじゃないの、みたいな伝言を(ウムイのとある読者さんから、ミカちゃん経由で)もらって、実はすごーくカチンときた。簡単に「わかる」とか「理解できる」ということばを使いたくなかったので、あえて「思いやる」にしたんだけど。
人がどうしようもなく死にたくなるのは、実は大人になってからじゃないか、とわたしは思う。つまり、40代はひじょーに危ないのだよ。
わたしも先日これに関連したことを書きながら「裏を返せば、大人になってから"死にたい"と思ったときが危険なんだよな」と感じてました。今生きているということはまだそういう風に思う羽目に陥ってないということで幸せなのかも知れません
実際自殺者数の統計を見れば、明らかに中高年(特に男性)が多いのですよね。そのことを、身近なところでひしひしと感じることが最近とても多いです。「ひとりで悩まないで」という思いで、わたしにできることを考えるのだけれど。
それにしても、そういう対象の人たちほど頼れるところが無いのが現状ですよね。最近はNPOなども結構できてきたのかな?いざ必要なときには見つける余裕など無いだろうから、日頃から調べておく必要があるのでしょうね。