子(娘)の立場と母の立場って、もしかすると、行きつ戻りつなのかもしれませんね。寄せては返す波のような、というのか。行き過ぎたと思うと戻り過ぎて、また戻り過ぎたら、今度は行き過ぎる。
自分が母親から受け取れなかったものを、母となって子に与えようとしたり、逆に、母親から受け取りすぎたものを、子に対しては押し付けまいとしたり。母の立場を読んで、わたしの母にとって母(つまりわたしの祖母)がどんな人であったかを思いおこしていました。祖母は自分では何もできない人で、周囲に依存してばかりいた。母にしてみれば、もっと親身に関わって欲しかった、という思いはあったかもしれません。
以前書いたものに、こうやってツッコミをいただくのって、なかなか新鮮です。自分でも読み直して、そうか、そんなこと書いたんだった、と思ったり。いつまでたっても同じようなことしか書いてないなあ、と思ったり。それに何より、また新しい発見もあるし。
読ませていただきました。母と娘(つづき)。
85歳のお母様と、乾杯ですか。
今はそうやって、大地のような、大好きな人と一緒に、穏やかな日々を送っておられるのですね。戦火の中であなたを守り抜いた、その方と一緒なんですね。
(ツッコミが1月分の日記に対してなので、最新のツッコミ表示に出ないので、こちらからリンクすることで、他の方にもご紹介しています。こういうやりとり、ちょっと面白いですね。)
で、そのリンクをたどって森の水車さんのツッコミを読まれたブチャ猫さんから、コメントがありました。森の水車さん、お読みになりましたか?
わたしの娘が四捨五入で30歳になるのはまだまだ先ですが、その時娘とわたしの関係はどうなっているのやら。
眞知子さん
ツッコミにツッコミもあるんですね。とても面白い世界ですね。ありがとうございます。
娘が私に言いました。”夢を見たのよ。夢の中ではお母さんは子供だった” この言葉を聞いた時、私はなんだか娘に悪いことをしている様な、淋しい気持ちになったんです。私は母親になりきれてないんだわってね。娘に淋しい思いをさせている、、自分が母からもらった愛情と同じような愛情を、あげてないんだろうってね。ピーターパンのように大人になれない、どこかいつまでたっても立派な親っていう概念が、私の中では形にならないんです。そんな母を許してくれる?(娘へ)まるで自分の日記の様になってしまいました。周りが見えなくなる瞬間ってありますか? 気がついてみると、自分の世界に没頭していたという経験。人は、そんな私を集中力があると言ってくれますが、その時私は「千と千尋の・・」の中に出てくる”顔無し”の様な、何にでも染まる無意識状態に近いのではと思います。そんな私の娘はそれなりの生き方で生きて行ってくれるでしょう。(←楽天家)眞知子さんの言っておられたイメージ”命の波”寄せては返えす生命のうねり。どんな波もありますものね。
ここでよければ、「自分の日記の様に」お書きいただいてよいですよ。こちらも、楽しく読ませていただいていますので。
無断でリンクしてしまいすみません。
#c2は、森の水車さんの#c1に対する応答です。「どうぞ遠慮なく、ツッコミにお書きください」という。
ブチャ猫さん、リンクありがとうございました。何かわたしの書き方が悪くて、勘違いさせてしまったのかな、と気になります。そうだとしたら申し訳ありません。リンク、全然問題ないですよ。
ネットで知りあった方には親との関係で悩んでいる方が何人もいらっしゃって、それがきっかけで親と子についてよく考えるようになりました。子ではなく、親の立場で考えられるようになれば、苦しさから少しは開放されるのでしょうし、考えられないからこそ悩んでいらっしゃるのだと思っています。
自分では子供への接しかたや愛し方が正しいと思っていても、子供にとってそうだとは言えません。<a href="http://plaza.rakuten.co.jp/kishimi/diary/#2003-03-10">こちら</a>の「親という仕事は報われないことになっているのである」という言葉にうなずいています。