わたしが読ませてただいた文章は一般論として書かれたことなので、それに対する直接の反応ということではなく。覚悟したこととはいえ、やはりわたしが書いたことが、少なからぬ人たちに不愉快な思いを与えただろうと思うので。
確かに、「勘違い」という言葉は、自分に対して使うべきことばかもしれない。
「勘違いしていました、すいません。」
だが、こういう使い方もする。
「単なる勘違いなんだから、気にするほどのことじゃないですよ。」
誰かの見解に異論がある、ということを、わざわざ言うようなことはしない。その見解が、わたしのそれと相容れないものであっても、「あなたはそう考えるのですね、わかりました。」ということで、十分だと思っている。
議論の流れがスタートのところからどんどん逸れていって、元の大事な部分が薄れ、さらに、ある意味別の話にすり替わってしまっている、ということに関して、そのプロセスの中で発生した「単なる勘違い」に気がつきませんか?ちょっと立ち止まって、もう一度スタートのところで大事にしなければいけなかったはずのものを思い出してみませんか?そういうことを書いた。
もちろん、それは別の話をしている、という説明も読んだので、だとすればわたしの杞憂なのだ。ただ、わたしが気になったのは、特定のどなたかの発言というのではなく、全体の話の流れ、それらが重なっていくと、まったく違う方向に進んでしまう危険性、それを考えた。
「勘違い」だからこそ、固執する必要はないんじゃないか、見直してみれば、ああそういうことか、というふうに受け止めることができるのではないか、そう考えた。
ばかとか利口とか、そういうこととは一切関係ない。そんなことは、考えたこともない。
正攻法で議論するというのは、一見強さの表われのように見えて、実は非常に弱い。
その議論に真っ向から反対される可能性が高いだけでなく、反対しないという人々からも、「そんなに正攻法にこだわらないで、別のやり方があるんじゃないか」と言われる。議論の内実ではなく、議論の仕方についての指摘なのだが、そういう意見が足元から出てくるところに、正攻法の脆さがある。
そして、その瞬間を待ってましたとばかり、そこに食い込んでくる人々がいる。最初から、議論の内実に不満を持っている人々。そうやって、正攻法の議論は、その議論の仕方だけでなく、内実までもが侵食され、崩されていく。彼らは「勘違い」しているのではなく、最初からその機会を狙っているのだ。そういう意味では、「勘違い」していたのはわたしの方だ、と言うべきだろう。
だからわたしは、正攻法の議論を、それが過度に身構えたものであっても、その内実を守るために支える。わたし自身が、正攻法でしか議論できない不器用な人間だから。
あくまでボクが気をつける言葉遣いですから。あれは。
承知しています。わたしもわたしで、自分に突きつけてみたい言葉だと勝手に思ったので、考えてみたわけです。