そうか。場の存在しないコミュニケーションか。言われてみて、なるほど。とすると、ウェブ日記の世界について、「コミュニティ」ということばを使うこと自体が、再考の必要ありだな。ちと考え中。
あっと、tableタグ、閉じときました。(自分の環境で)見えるからいっか、でほっといたわたしがいけませんでした。すいません。
しかしなあ、「氏」がつくと、ますますこの大げさなハンドルが重荷になるなあ(笑)。
もつれるほどに、こじれるほどに、巻き込むほどに、人と人との間がどうしようもなくなってしまった話。
「聞いてくれてありがとう」と言ってもらったからといって、「どういたしまして」と言える代物ではなく。仕事上の人間関係の場合(恋愛と違って)、「さっさと別れちゃいなさい」とも言えないし。
自信のなさや、立場の弱さが、結局、虚勢を張るしかない方向へ人を変えていく。
相手だって、弱いのに。誰だって、弱いのに。
他人の弱さをさらに引き摺り降ろして、自分と一緒にしないと気がすまないのか。
ちょっと前のAsumi日記にも、膝を打ったのであった(この頃、膝が真っ赤だよ)。
もちろん、tDiaryを媒介にしたコミュニティは存在する。でも(略)コミュニティの中心が日記システムなんかになりうるわけがない。
短縮すると、システムがコミュニティを作るわけではない、ということ。
コミュニティという語に自信がなくなって、バイブル(ハワード・ラインゴールドの、「バーチャル・コミュニティ」)を読み直す。
(バーチャル・コミュニティは、)ある程度の数の人々が、人間としての感情を十分にもって、時間をたっぷりかけてオープンな議論を尽くし、サイバースペースにおいてパーソナルな人間関係の網をつくろうとしたときに実現されるものである。
これは、バーチャル・コミュニティの定義、というよりは、経験的な描写、というべきものだけど、重要な要素を含んでいる。
感情を十分に注ぎ込む、時間をかける、議論を尽くす、というコミュニティ形成のプロセスは、まさに、形の上での共通性がコミュニティの要件ではないことを語っている。
読み合うこと、言及しあうこと、人として感情を持って向き合うこと、そうやってはじめてウェブ日記はコミュニティを作ることが可能になる。果たして、現状は、コミュニティと呼べるのか否か。・・・やっぱり、考え中。