少し前になるが、こちらで、
たとえ世の中の人が私を嫌っても、母だけは私を愛してくれるという確信みたいなものが私を支ているような気がする。
というのを読んだとき、ああそうか、わたしが母に対してどうしても得られなかったのが、この確信なんだな、と納得する思いがした。(母が愛しているのは、ありのままの私ではなく、母にとってのあるべき私でしかない。)で、それはもういい、と今では思っている。
つい最近になって、「世の中すべてに嫌われても、私を受け容れてくれる存在」というのがあるとしたら、それはわたしの子どもたちだ、ということに気づいた。
ぷいと家を空けたわたしに対して、まるで何事もなかったかのように普通に接してくる娘に、「なぜ、そうなの?」と問うと、彼女はちょっと首をかしげて考えた後、「僕って、そういう人だから。」と一言。この答えには参った。
気づいたら、子どもたちは十分に対等に、というよりそれ以上に安定して、わたしのことを見ているようだ。何も無理をしていい母親を演じる必要はない、とその瞬間感じた。
娘さんが「僕」っていうんですか?
ええそうなんです。娘は自分のことを「僕」といいます。そうしたければ、それでいいよ、とわたしは娘に言っています。
ちなみに、息子は自分のことを「おら」といいます。クレヨンしんちゃんの影響ですかね。
(おまけ:ちゃんとストーカーしてますよん。今度はorangeか。)