昨日、紅梅と白梅と書いたら、櫻の花芽もすでに12月からふくらんでいますね、というメールをいただいた。そうだ、わたしも去年それに気づいたのに、すっかり忘れていた。やはり精神的に余裕がないのだろうな。
櫻、というところがいい。桜ではなく、櫻。
「根っこと死体」という連想も含めて。
川の両岸に、見事な櫻が開花する。その川に沿った道を、わたしは親友とふたりで毎日手をつないで学校に通った。今の実家に越してきてから、小学校を卒業するまで、毎日。
強情で、理屈っぽくて、誰の言いなりにもならない性格だったわたしは、小学生の頃、しばしば露骨に女の子たちから仲間はずれにされた。わたしには、なぜそんなに冷たくされなければならないのか、合点がいかない。仕方がないので、男子と遊ぶ。そんな感じ。
どうしてかなあ、なぜ嫌われるのかなあ、何が悪いのかなあ、だんだんと自信が失われていく。でも、その親友だけは、いつもそんなわたしを見放さない。わたしが卑屈になることなく、自分のままでいられたのは、その彼女のおかげだったと思う。
そうやって、助けられた、と思っていたら、小学校を卒業する頃、ふっと彼女が、**ちゃんて、ほんとにいい人だと思うよ、とわたしのことを言う。え?いい人はあなたの方でしょう、逆じゃない、とわたしは思う。でも、そんな彼女の言葉は、わたしの心を、すっと引き立ててくれた。
今日、娘が唐突に、**先生(2学期の途中から、臨時に担任をしてくださている先生)がね、ママのこと、「素敵なお母さんね」って言ってたよ、と言う。どういう文脈で、どんなつもりでそんなことばが出てきたのかはわからない。でも、母親としての自信を失いかけていたわたしは、そのことばで励まされる。
真意がどこにあるのか、冷静に考えればさして意味のないことに違いない。でも、心が沈んでいるようなとき、疲れ果てているようなとき、そのことばで力を与えられる、ということはあるはずだ。ことばの力とはそういうものだし、それでいいと思う。