郊外のファミレスで、少し遅い晩御飯をとる。わたしの目の前にいる人は、こちらが無理を言って時間のやりくりをして出てきてもらったにもかかわらず、屈託のない笑顔で迎えてくれた。この笑顔の後ろ側に、いろいろなことがあったということの、その一部分だけはわたしも知っていて、だからこそ、その明るい笑顔を直に見ることができてとても嬉しかった。
話すように書くその人の文章の記憶はいまだ鮮明で、しかしその一方で、書くように話すことのできる関係を作るのに苦労する人なのかもしれない、とも思う。わたしも、面と向ってはなかなか自分のことを話せない人間なので、書く手段があってよかったと思う点は同じ。
ようやく落ち着いた穏やかな時間。さらにもう少し先へ手を伸ばせば、もっと安定した幸せを掴めるかもしれない。それがわかっているのに、そのもう少しが踏み出せないないと言う。幸せになることが怖い、もし幸せになれたとしても、その後にそれを失うかもしれないことが怖い。
痛めつけられた記憶は、人を過剰なまでに慎重にする。どこかでボタンを掛け違ってしまった人は、全部はずせないと次のボタンが掛けられないと言う。でもね、そんなことにこだわってないで、前に進まなきゃ、とポンと肩を押してあげたくなる。ポン、と。
どこを探したって、どんなに待ったって、確実な幸せなんて、どこにもない。だからこそ、目の前に差し出されたものをしっかり掴んで、それを大切にしていけばいいと思う。こんなこと、わたしが言うようなことじゃないんだけど。
出張の帰りは京都からの新幹線だったので、列車に飛び乗る前に、しばづけと生八橋をお土産に買う。家にたどり着いた翌朝、中にあんこの入った生八橋(「おたべ」というやつ)を出して、「食べていいよ」と言ったら、息子が「これ、焼かなくていいの?」。餃子だと思ったらしい。
八つ橋、かるくあぶってもおいしいですよ
心が穏やかなときって「もしかして落とし穴に落ちちゃったのかな?」と思ってしまいます。辛かったり苦しいかったりすることが、山なし谷なしの平坦な日常になってしまっているのかなぁ。
千絵さんではなく、hirikaさんへ。<br>スティーブン・キングの『ダーク・ハーフ』の中で、常に重い荷物を背負わされているロバに、普通に働くロバが「キミって大変だね」と声を掛けると、荷物を負ったロバが「え? 何が?」と答えるという例えがありました。<br>思い出すとちょっとだけ涙が出ます。
「あぶってもおいしい」確かにそうでしたね(笑)。わたしは、「これ餃子じゃないの?」と言われたとたんに、フライパンに油ひいて、おたべを焼いて、しょうゆかけて食べる図を想像して、うげ、となってしまったのでした。案外これも、いけるかもしれないな。
ツッコミ、テストですう。